全国盲ろう者体験文コンクール

第7回 受賞作品

特賞 

「生かされてる命と繋がる心の喜び」

前田光治(熊本県 全盲難聴)

 
 私は56歳の全盲難聴です。
 目は網膜色素変性症で、昭和63年に、右目を失明し、平成7年に、左目も失明して全盲となり、耳は感音性難聴で、目の障がいの後を追うようにして右耳の難聴がおこり、平成10年に、左耳の難聴が進行して現在、両耳に補聴器をして、私の左耳の近くで話をしてくれると、音声による会話可能ですが、聴力は年々落ちており、将来全く聞こえなくなるのでは? と不安な日々を過ごしています。私の姉が先天性の聴覚障がい者ということで私の聴覚は遺伝でした。「遺伝?」に疑問を持った私は、他の病院を受診しましたが、同じ答えを聞くことになり、「もしかすると、あの時の交通事故が引き金になったのではないだろうか?」というのは、その事故による奇妙な体験をしている……昭和62年5月当時、父はガンで通院していました。私は結婚して2年を迎え、仕事が忙しく、なかなかお見舞いに行けずにいたので、「たまにはお見舞いにでも行くか」と自転車に乗って病院へと向かっていた。途中、下り坂に入ったところで突然、車が私の左側を直撃した。一瞬の出来事で私は、「あーっ!」と、追突された記憶はあるが、不思議なことに、その瞬間から私の体は分離したかのように、ひゅーっと宙に浮いて、オルゴールの音色が流れて……辺りを見渡すと、雲の中に入り込んだか? と思うほど、真っ白な空間をなにかに? 導かれるようにしてどこへ向かってるのかわからない中……今までに味わったことのない、幸福感に満たされていた。その時、人の呼びかけで私は、救急車の中で意識を取り戻し……私は夢でも見ていたのだろうか?またそれが、何を意味するのか?未だに、謎?として残っている。
 不幸中の幸いで手足の怪我と、頭部5針の縫合(ほうごう)で救われるという、「生かされてる命」を感じていた。事故から1年後、父は借金を残してこの世を他界し、私は目と耳の障害が起こり、勤めていた会社を退職。そしてこんな私の将来を悲観してか、妻から1枚の紙を渡され、離婚……。「何故? 僕がこんなめにあうんだ」と、いくら胸中で呟いても虚しさだけが残った……それでも何とかしなければと、「この世は喜びも悲しみも全て修行の世界なんだ」と、自分に言い聞かせて盲学校へ行くことにした。
 授業中の先生の声とか周囲の声が聴き取りづらいこともあって大変な思いをしましたが、何とか平成7年の国家試験に合格しました。しかし、皮肉なことに、それと同時に、左目も失明してしまうとは……卒業後は、治療院や特別養護老人ホームと勤務していく中でやっと、第2の人生を送れるはずだった。
 左耳の難聴が進行していることに気づかず、患者さんの言っていることが聴き取りにくくなっており、呼ばれても返事をしていないなど、迷惑をかけることが多くなっていた。また、友人との会話でも、私から少し離れただけで、「……?」と聞こえておらず、何度も聞き返すと、怒鳴るような大声になってイライラしてるのがわかり、私も聞き取れないことに苛立ち、お互いが感情的になって時には喧嘩になったこともあった。
 一人暮らしをしている私にとって、「見えない・聴き取りにくい」は、情報が限られ、また誰とも「つながり」の無かった私の心は暗闇の宇宙空間に一人いるようなものであった。こんなときに、辛かった過去までもが甦ってきた……。
 私が幼少だったころ、祖父母は、お風呂屋を経営していましたが、祖父が他界して多額の遺産が父の懐に入ると、連日のように、ギャンブルに、酒にと、人格を変えてしまい、酒癖が悪く、飲んでは暴れるの繰り返しで母は傷が絶えず、幼少だった私ではどうすることも助けることもできず、私の体はあざだらけになっていた……。
 こんな過去が思い起こされ、数々の「試練」に、疲れ果て「この先、どうなるんだろうか?」と、不安ばかりが心に降り積もって、人生さえも絶望していた。部屋の整理をしていたら1通の点字用紙を発見し、それが私を救ってくれるきっかけとなった。全国盲ろう者協会(以下、協会)から送られてきた、「盲ろう者実態調査アンケート」の案内で4年前のものでしたが、私は例え、僅かな情報でもいいからと、協会への登録と、盲ろう者情報誌、『コミュニカ』の交付をお願いしました。そして協会より、情報提供していただいた、「熊本盲ろう者夢の会」の事務局長さんと、お話をする中で親身に私の話を聞いてくださり、信頼できる人だと確信した私は入会を決意し、いつの間にか気持ちが軽くなっていた。「つながる心の喜び」を感じながら人の優しさに触れ、生きていて良かったと思った。
 また、『コミュニカ』を拝読していく中でも、盲ろう者の方々の体験文では、同じ障がい者として、その心の葛藤や生き様は共通のところもあって、他人事とは思えず、自分のことのように思えて涙がこぼれた。私よりも重い障がいを背負いながらも人生を楽しみ、前向きに生きておられる様子には、深い感動と、力強い勇気を与えてくれました。
 『コミュニカ』を通じて、様々な情報が得られ、共有できたことで暗闇だった私の心の空間に、ひとつまたひとつと、星が生まれ、いつかきっと、満天の星となって輝いているに違いない……。私は今のこの気持ちを大切に心に刻み、これから色んなことにチャレンジして生き甲斐となる楽しみを見つけたいと思います。

 

入賞

「母さん有難う」

宮里進(沖縄県 全盲難聴)

 
 「母さんは悪くない、毎日働いている、病院も通っている」
 私の目の診察をした医師が、母に向かって言った。
 「どうしてここまで放置したのだ、先天性緑内障だ、失明のおそれもある」
 母は小さく固まって顔色を失っていた。その母に医師は繰り返し言うのであった。
 「どうしてここまで放置していたのだ」
 その時思わず私は叫んだ。鹿児島大学病院の紹介状をいただき、家路に向かった。首里の小高い坂道を降りながら、母はつぶやくように言った。
 「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」
 それは私への励ましでもあっただろう。迫り来る、大波の試練に、自らを鼓舞していたのかも知れない。昭和41年5月。私が15歳の時であった。夕焼けに染まり茜空が美しかった。ウリズンの風にハイビスカスが揺れていた。当時沖縄は米国の統治下に置かれ、医療も貧弱なために日本本土から医療奉仕団が派遣されていたのである。父は私が6歳の時に他界していた。母は当時、幼かった私たち4人兄妹を育てるために懸命に働いていた。
 本土では国民健康保険法が昭和36年に施行されていた。沖縄は遅れること12年、本土復帰を果たした翌年の昭和48年の施行である。母は多額な入院代のため、村長さんと一緒に寄付金集めに奔走した。私は両眼手術を受けたが、期待は打ち砕かれた。その時は知るよしもなかったが、失明の時期を遅らせるための手術であったのだ。手術を受ければ、見えるようになると思っていたのに……。
 失意のどん底に落ちた。帰郷した私は家庭療養をしていた。友はよく来てくれた。卒業式にも招かれた。夢に向かい、学び舎を旅立つ友に拍手を送った。
 やや経って、私は一人取り残された思いであった。込み上げてくる、孤独と寂しさを抑えていたのだ。昭和42年、沖縄盲学校へ転校。家庭的な雰囲気で、生徒会活動とスポーツに、積極的に取り組んだ。昭和50年、24歳。私は、あん摩・マッサージ・指圧、はり、きゅう師の免許を取得、学び舎を後にした。すぐに整体外科病院に就職でき、私の治療室は賑やかであった。冗談を言い合って、笑いがはじけた。謝礼は丁重にお断りをしていたが、患者さんの中には、受付にそっと渡す人もいた。私は生きがいと喜びに充実した日々を過ごしていた。初月給は母に差し上げた。母はことのほか喜んでくれた。
 しかし、視野狭窄と難聴が進行し、私の心は重苦しくなっていった。職員や患者さんとの意思疎通も難しくなりつつあった。ありのままの現実を受け入れることのできない、自分は心の葛藤が続いていた。昭和51年夏の日差しがまばゆい日であった。出勤時、私は横断歩道を歩いていた。左折した大型タンクローリーに、前輪で、跳ね飛ばされ、後輪にひかれた。叫び声と車のクラクションで騒然となった。茫然自失の私に、数人が駆け寄った。
 「大丈夫ですか、信号は青だったからね、証言するからね」と励まされ、名刺交換をした。九死に一生を得たが、今思いだしても背筋が凍る。秋には、住宅の新築にともない、開業に踏み切った。外国の方も来院する。米国では、障害者のことをハンディキャップとは呼ばないそうだ、チャレンジドと呼ぶそうだ。日本語として解釈すれば、特別に資格を与えられたとのことらしい。
 40代は喘息、50代には狭心症でバイパス手術を受けた。身障手帳には、視覚、聴覚そして心臓障害と記載された。心が折れそうな日もつづいたが、現在も働けることに喜びも一入(ひとしお)である。
 開業以来40星霜(せいそう)。走馬灯の如く、私の心を駆け抜ける。母は車イスの生活となり、認知症もある。兄妹と共に介護し、現在は施設に入所している。私は週一のペースで見舞い、リハビリマッサージを行っている。母は今度米寿を迎えるので兄妹と祝賀会を計画している。私はサプライズを考えている。幸いに、盲ろう者に三味線を教えて下さる若くて熱心な、さつき先生とのご縁ができた。とても感謝している。長男は東京へ、長女は米国へ、それぞれ夢を抱いて私の下から飛翔した。還暦を迎えた私は考えた。視覚障害者の福祉の向上のため役員を歴任したが、最後の社会貢献活動として何ができるのか。結論に至ったのは、光と音のない世界で生きる盲ろう者のことであった。
 しかし認知度は低く、友の会に入会するまで1年半を費やした。交流会に参加した感動は忘れない。温かく迎えてくれた。そして盲ろう者に寄り添う、尊き通介者の存在も知った。筆舌に尽くせぬ辛酸を嘗(な)めたであろう、悲哀の涙を幾度も流したであろう。私は心に固く誓った。友の会の仲間と一緒に歩いていこうと。尊厳無比なる命、魂は自由自在だ。希望を作り、希望に生き、希望を実現する。そんな人生を過ごせたら幸せである。

 

入賞

「私の歩み」

岡田昌也(滋賀県 全盲ろう)

 
 私は1歳の頃に高熱の病気で盲ろうになりました。左目は全盲でしたが、右目はまだ視力が残っていました。滋賀県立聾話学校幼稚部に入学し、キュードスピーチを学んでコミュニケーションが取れるようになりました。当時は手話が禁止されていましたが内緒で手話も友達などから学びました。
 また、母が掌や頬、肩を使ってひらがなをなぞる方法を工夫し、それを先生にも伝えてコミュニケーションがよりできるようになりました。
 しかし、ろうあの友達とは見えないことでいじめられて大変悩み、盲学校への転校も考えました。しかし、健聴である盲の子ども達とはコミュニケーションが取れず、ろうの子とは何とか人間関係が取れていたのでろう学校に残りました。
 小学部3年頃から、右目もほとんど見えなくなり、4年生の夏休み前に手術を受けることにしました。結果は残念ながら全く見えなくなり、2学期に復帰した時には以前と違って子ども達も少し協力的となりました。
 小学部6年から中学部3年までの担任の先生は、年配の厳しい先生でした。何か問題があると、叩く、つねる、耳を引っ張るなど他の見える生徒と全く同じ扱いでした。これには辛抱できず反抗して暴力をふるうこともありました。この頃は非常に苦しい思いをし、真剣に自殺を考えたこともありました。
 幸い中学部1年から寄宿舎に入ったので、先輩がいろいろとかばってくれたり、優しく話しやすい寮母さんとの会話で心が慰められました。一方いじめもまだまだ残っていました。
 そんなとき、副担任であった中途失聴の先生がアメリカに視察に行き、触手話で盲ろう者がコミュニケーションをしているのを見て、その方法を勧めてくれました。まず指文字を学び、手話でのコミュニケーションに代えていきました。
 高等部に入ると、ろうあの先生も多く、手話で楽しくコミュニケーションができました。
 卒業後に就職先を探しましたが、盲ろうのためほとんど断られました。卒業式の2週間前に、ようやく段ボール製造会社が実習を受け入れてくれました。そこで充分仕事ができることが分かり、母を介助通訳として同伴する条件で採用してもらいました。
 主に段ボールの型抜きをしたカスを取り除き、種類毎に数を数えて仕分けする作業でした。はじめの2年ほどは同僚ともコミュニケーションも取れず、悩みました。
 そこで、友人などの勧めもあり、ろうあ協会活動に参加することで、ストレスを解消し、また多くの交流から社会のことを学び、通訳介助がなければ外出もできない盲ろうというハンディや悩みを積極的に外へ主張できるようになりました。
 その後、母が体調不良となり15年間勤めたこの会社を辞めなくてはならなくなりました。辞めた後は7年間、次の就労先はなく在宅生活です。その間、母が入退院を繰り返していましたので、家庭内でのもめ事も多く悩みも沢山ありました。
 そんな中でも、ろうあの友人が励ましに来たり、外出に誘ってくれたりしてなんとか乗り切り、聴覚障害者の作業所からの誘いもあって、そこに通うことができました。
 作業所では全盲ろう者は初めての受入で、職員や利用者も戸惑いましたが、少しずつ慣れてきて利用者のリーダーにも選ばれたり、近くの手話サークルに通うことも出来ました。今は施設で頼りにされる働き手として頑張っています。
 また、作業所に入った後盲ろう者友の会にも入会して、現在、周りの皆さんの支援で理事長を10年間務めさせてもらっています。
 この間、友の会事務所の移転や立ち退き問題をきっかけに、盲ろう者にとって安心できる拠点確保を目指し、募金活動に取り組みました。そして、事務所を含めた土地購入を実現することができました。しかし、事務所は古い民家ですので、地震にも耐えられる施設、盲ろう者のための支援センターづくりに向けて現在奮闘努力中です。
 こうした活動で正直疲れやストレスが溜まりますが、できるだけ多くの人たちと交流し、趣味のお城巡りなど、自分が行きたいところへ出かけたりして、気分転換を図りながら今後も活動を続けたいと思っています。